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天才の勉強法に学ぶ ーモーツァルトは如何にして大音楽家になったのかー

みなさん、こんにちは。武田塾太田校です。
受験生の皆さんは学習計画に沿って順調に勉強を進めていることと思います。

みなさんはこんなふうに思ったことはないでしょうか?
『あぁ、自分が天才だったらこんな受験勉強なんて苦労することもなく1回参考書に目を通しただけですべて理解できるのに…』
天才は、凡人のような地道な作業などせず、笑いながらとてつもない傑作を私達に見せてくれる…そんなイメージを持っている人もいるのではないでしょうか。
今回は、そんな天才というイメージの付いた人物の一人である、作曲家のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの学習方法について考えてみたいと思います。

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モーツァルトのイメージ

物心がついた頃にはすでに作曲を始めたと言われる、“神童”モーツァルト(1756-1791)。彼はとにかく速筆の作曲家として有名でした。実際にギネスブックには、

・交響曲39番、40番、41番の3曲をわずか1ヶ月半で作曲したこと

・オペラ『ドン・ジョヴァンニ』の序曲を一晩で完成させたこと

が記載されています。なぜこれほどまでにモーツァルトの作曲スピードは早かったのでしょうか?彼自身の手紙や、ミロス・フォアマンの映画『アマデウス』によると、モーツァルトにとって、作曲はすでに彼の頭の中で終了しており(または神からの啓示が如く彼に降りてくるものであり)、あとはそれを五線紙に描くだけだった、と言われています。映画の中ではビリヤード台で玉突きをしながらだったり、ワインを片手にスラスラと五線紙に書いていくモーツァルトの姿を見ることができます。これが果たしてどこまで真実かはわかりませんが、少なくとも現在まで残されているモーツァルトの自筆譜には、書き直しをした箇所は極端に少ないそうです。ベートーヴェンやブラームスが推敲に推敲を重ね、時には大きく作品を改編してようやく発表するのとは確かに対極にある作曲家なのかもしれません。モーツァルトのすごいところは、このように修正の少ない完成稿でありながら、そのメロディーは例えようもなく美しく、それでいてその様式には音楽学者も一切批判できない完璧な理論構築が行われている点です。つまり、“ただ速筆なだけではなく、それが芸術として最高レベルにまで高められている”というところが天才である由縁なのだと思います。

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“天才モーツァルト”はいかにして作られたのか

天才の出現には、それを許容する環境が必要です。たとえ生まれた子に絵の才能があったとしても、両親や周りの人の理解がなければ、その才能が開花するまでに時間がかかることでしょう。モーツァルトはその点に関しては、大変恵まれていたと言えるでしょう。彼の父親のレオポルト・モーツァルトは神聖ローマ帝国(今のオーストリア)にあるザルツブルグという街の大司教のもとで働く宮廷音楽家でした。彼自身も多くの作品を残しましたが、残念ながら今はあまり演奏される機会に恵まれません。ただし、彼の残したヴァイオリン教本は、今も古典的名著として多くの演奏家たちに読まれています。そんな教師的な気質のあった父親は、すぐに息子ヴォルフガングの類まれなる才能に気がついたと言われています。

そこで父レオポルトの取った行動は、『この子にこの世界で最高の音楽教育を与える』ためのあらゆる策を講じることでした。彼は取れる限りの有給休暇や、時には無給休暇まで取得し、ヴォルフガングを連れてヨーロッパ中を旅しました。その各地で演奏旅行を行い、“神童”の名をほしいままにしました。

我々のような下世話なものの目から見れば、『さぞ儲けたことだろうなぁ』などと考えてしまうのですが、レオポルトの目指すところは違いました。当時の音楽の中心であったイタリア、素晴らしいオーケストラのあったマンハイムやパリ、大陸とは異なる文化の芽生えていたロンドン等、当時の伝統的なものから最先端のものまで、考えられるすべての音楽様式を息子にシャワーのように浴びさせようとしていたのでした。

モーツァルトのわずか35年の短い人生の実に3分の1は旅であった、とさえ言われています。このような父親の自らの人生を捧げての教育の結果、天才は生まれたと言えるでしょう。もし、あなた達のご両親があなたの教育に大変理解があって、まだ小さいときからいろいろな経験をさせてくれたり、早くから勉強の大切さを教えてくれるような方であれば、あなた方は今頃大変幸せな人生を順調に歩んでいることでしょう。

もし残念ですが、周囲の環境に恵まれなかった方々は、ぜひ今後自分の子供達にはたくさんの経験をさせてあげたら良いと思います。そうです、あなた達自身がレオポルト・モーツァルトになるように努めてほしいのです。

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モーツァルトのミゼレーレ伝説

1770年、14歳のモーツァルトは、父親とともにイタリアのローマに赴きます。その折、システィーナ礼拝堂で“門外不出の”合唱曲ミゼレーレを耳にする機会を得ました。9声からなるこの合唱曲は、システィーナ礼拝堂でしか演奏することが許されない曲でしたが、一度耳にしたモーツァルトはすぐにそれを完全に五線紙に書き起こして世間を驚かせました。この時に語られるのは、モーツァルトの驚異的な絶対音感と記憶力ばかりですが、彼の頭の中には楽典的な知識が十分に入っていたために、宗教曲で用いられる様式や禁則事項の理解が確立していた、という事実も大きいと思います。

これを学習という面から裏付けるのであれば、しっかりとした基礎知識の定着があったからこそ、システィーナ礼拝堂で聴いた時にその経験を活かして伝説を作った、と言えるでしょう。よく言えることですが、天才とは凡人の何倍も努力をしています。ただ、学習の努力とともにそれを好きになる努力もしているのかもしれません。

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モーツァルトのレクイエムはある人のコピー作品

モーツァルトの傑作『レクイエム』(死者のためのミサ曲、または鎮魂歌と訳されます)は、彼の死によって未完のまま残されました。この曲は彼の弟子たちによって完成されたものとして今まで残っています。有名なところでは、アメリカ大統領のJ.F.ケネディの葬儀で演奏されています。この作品の第1曲、入祭文のメロディーは大変美しく、自らの死を予感しつつ作曲していたモーツァルトの心理を色濃く反映していると言われています。もちろん、その解説に異論はないのですが、モーツァルトがこのメロディーをオリジナルとして作ったのではない、ということが最近の研究で明らかになっています。

そのコピー元とされるのは、ミヒャエル・ハイドン作曲の『レクイエム』。モーツァルトのレクイエムが作曲される20年も前の作品です。ミヒャエル・ハイドンは、あの有名な“交響曲の父”ヨーゼフ・ハイドンの弟にあたります。ザルツブルグの宮廷で音楽家として働いていたミヒャエルは、モーツァルトと親交もある人物でした。

おそらくは、レクイエムの作曲を依頼されたモーツァルトに、友人がかつて作曲したレクイエムのメロディーが思い出されたのではないでしょうか?今はネットですぐに聴き比べることができますので、ぜひ視聴してみることをおすすめします。率直な私の感想を言うなら、『確かにメロディーラインや曲の構成には、ミヒャエル・ハイドンの作品を参照したと思われるフシがある。ただし、参考にした上でそれを自らのものとして、数段上のメロディーライン、曲構成に作り変えたのがモーツァルトである』といえます。

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コピーすることとは最良のものを自らに取り入れること

『コピーする』と言うと、今ではレポートをネットの文章からまるまるコピーしてくる、などといったネガティブなイメージが強くなってきてしましました。もちろん、他人の創作をそのまま自作として発表することは論外です。ただし、優れているもの、美しいものをコピーして勉強することは大変重要です。モーツァルトは美しいと思ったメロディーは常にアンテナを張り巡らせ、自らの知識として、それをオリジナルにまで高める能力に長けていました。

学習も同じなのです。数学の美しい解法、英語の名訳、古典の名文などは積極的にコピーして、スラスラと口をついて出てくるほどにすべきなのです。そうすると、試験のときには、自らの実力として美しい解答にまで高めていくことができるのです。

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