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日本史B 超重要人物!「清和源氏」の覚えるべきポイント

清原源氏

こんにちは!京都駅の予備校・塾といえば、武田塾京都駅前校です。

センター試験までもうすぐで50日…!100日と言っていたころから半分が過ぎました(゚Д゚;)

受験が近づくにつれ、時の流れはどんどん早く感じます。「1日くらい」「2日くらい」とサボることなく残りの期間を走り切りましょう!

 

さて今回は、毎度おなじみ日本史が大得意な講師に【源氏】について聞いてみました(^^)/

人物名は覚えているけど流れをイマイチ覚えていない…そんな人には絶対確認してほしい内容です!

 

日本史Bにおける清和源氏

日本史Bには多くの源氏の人物が登場します。受験生にとってそれらの人名は混同しやすいものではないでしょうか。そこで今回は日本史Bに登場する主要な源氏の人物をまとめました。

そして、このまとめは単にそれぞれの源氏の人物を区別するためだけにあるのではありません。清和源氏の諸人物は平安時代後期から鎌倉時代初期の歴史事項を順序だてて整理する手掛かりとなりますので、大変有用なのです。

いずれにしても下記のほぼ全ての人物は東進ブックス『日本史B一問一答』でも★2★3に記載されている超重要人物なので、暗記してしまう必要があります。

清和源氏とは

歴史上、皇位継承争いの勃発を避けるためなどの理由で、皇族の地位を離れた人物は数多く存在しますが、それらの元皇族たちは新たに「姓」を与えられることで現皇族と区別され、一般人のように見なされることとなります(氏姓制度を学習した皆さんならご存じの通り、氏や姓は天皇から臣下に与えられるものなので、現在まで皇族は姓をもっていません)。

 

このようにして姓を与えられた元皇族たちが、有名な橘氏(橘諸兄ら)や在原氏(在原業平ら)、桓武平氏(平清盛ら)などであり、清和源氏もこの中の一つに含まれます。

清和源氏がただの「源氏」と表記されず、「清和」を冠して呼ばれるのは、前述のような方法で姓を与えられて臣籍降下した人々のうち、「源」姓を与えられたケースが非常に多く、それらの源氏たちを、その最も近い先祖にあたる天皇の号を冠して呼び分けることで区別する慣習があるからです。

従って、日本史Bには清和源氏でない源氏の人物も登場します。

まずはそれらを先に整理しましょう。

なお、漢字で「源信」と表記する人物は二人登場しますが、「げんしん」と読む後者の方は清和源氏の人物ではありませんので注意してください。

 

源氏

 

源信みなもとのまこと

嵯峨天皇さがてんのうの子(嵯峨源氏)。大納言伴善男とものよしお応天門の変おうてんもんのへん(866年)を起こされて失脚させられかけた。事件は摂政藤原良房ふじわらのよしふさによって伴善男が排斥されて収着した。

源高明みなもとのたかあきら

醍醐天皇だいごてんのうの子(醍醐源氏)。左大臣まで登るが、安和の変あんなのへん(969年)で源満仲みなもとのみつなかに密告され、大宰府に左遷された。この安和の変には藤原実頼ふじわらのさねよりの策謀ともいわれ、これをもって藤原氏の他氏排斥は完了した

源信げんしん

別名恵心僧都えしんそうず。天台宗の僧。※源氏の人物ではない(父は卜部うらべ氏)。念仏による往生を説いて『往生要集おうじょうようしゅう』を記した(国風文化)。

 

ここからも明らかなように、源満仲が同じ源氏である源高明に不利になるような密告をしたのは、両者が同じ源氏といえども、彼らは同じ氏を持っているにすぎず、別の天皇を始祖に持つ全く別の一族だからであるという事がわかります。

 

清和源氏

つづいて以下が日本史Bに登場する主要な清和源氏の主要なメンツです。

親子関係まで覚えることが重要で、この並びを暗記できれば、これらの人物にひもづけて、平安後期から鎌倉初期までの政治の流れを順序だてることができます。

清和天皇せいわてんのう

文徳天皇もんとくてんのうの子。清和源氏の祖。

藤原良房ふじわらのよしふさによって幼少のまま即位し、彼を摂政に任じた。

貞純親王皇さだずみしんのう

清和天皇の子。

受験する上で知っておくべき人物ではないが、日本史Bに登場する清和源氏は全員貞純親王の子孫である。

源経基みなもとのつねもと

経基王つねもとおう

貞純親王の子。源姓を与えられ臣籍降下した(皇族だった時の呼び名が「経基王」)。

小野好古おののよしふると共に藤原純友の乱ふじわらのすみとものらんを鎮圧した。

源満仲みなもとのみつなか

源経基の子。摂津に土着し多田源氏ただげんじの祖となった。

安和の変で源高明を密告し、失脚させた。

源頼光みなもとのよりみつ

源満仲の子。頼信の兄。

父から摂津の所領を引き継ぎ、藤原兼家ふじわらのかねいえ藤原道長ふじわらのみちながに仕えた。

源頼信みなもとのよりのぶ

源満仲の子。頼光の弟。河内に土着し、河内源氏かわちげんじの祖となった。

房総地方で起こった平忠常の乱たいらのただつねのらん(1031年)を鎮圧し、桓武平氏をおさえて清和源氏(河内源氏)の東国進出のきっかけをつくった。

源頼義みなもとのよりよし

源頼信の子。

阿倍頼時あべのよりとき貞任さだとう父子が陸奥で起こした前九年の役ぜんくねんのえき(1051年~)を、出羽の豪族清原きよはら氏の援助を得て子の義家と共に鎮定した。陸奥守と鎮守府将軍に任じられた。

源義家みなもとのよしいえ

源頼義の子。

父と共に前九年の役に従軍した。後に後三年の役ごさんねんのえき(1083年~)で清原氏の内紛に藤原清衡ふじわらのきよひらを助けて介入し、清原氏を滅ぼす功をあげ、東国武士の信望を集めた。

源義親みなもとのよしちか

源義家の子。

朝廷に背いて源義親の乱みなもとのよしちかのらんを起こしたが、平正盛たいらのまさもりによって鎮圧され、清和源氏(河内源氏)の衰退と桓武平氏の台頭を招いた。

源頼政みなもとのよりまさ

源頼光の玄孫。源為義と同世代。多田源氏。

保元ほうげん平治の乱へいじのらん共に勝者側につき、平清盛たいらのきよもりの下で全盛を極める平氏政権において、唯一清和源氏として高官の地位を許されていた。

後に興福寺・園城寺と通じて以仁王もちひとおうと共に平氏に背いて挙兵し、敗死したものの治承じしょう寿永の乱じゅえいのらんのきっかけとなった。なおこの件で平氏は興福寺への攻撃を決定し、平重衡たいらのしげひらの指揮の下南都焼き討ちが実行され、東大寺の大仏殿が巻き添えとなって焼失した。

源為義みなもとのためよし

 

源義親の子(異説有り)

保元の乱で子の為朝らと共に崇徳上皇すとくじょうこう側に参戦して敗れ、子の義朝によって斬られた。

源義朝みなもとのよしとも

源為義の子。為朝の兄。

保元の乱で後白河天皇ごしらかわてんのう側に参戦して勝利し、父の為義を斬った。

続く平治の乱では藤原信頼ふじわらののぶより側につき、保元の乱の勝者同士平清盛と戦ったが敗死し、桓武平氏の全盛期を招いた。

源為朝みなもとのためとも

源為義の子。義朝の弟。

保元の乱で父の為義と共に崇徳上皇側に参戦して敗れ、父ともども兄の義朝によって斬られた。

源頼朝みなもとのよりとも

源義朝の子。範頼、義経の兄。

父が平治の乱で敗れた後、清盛によって助命され伊豆に流されていたが、源頼政・以仁王の挙兵に呼応して挙兵し、石橋山いしばしやまの戦いで敗れたものの富士川ふじがわの戦いに勝利し、弟範頼・義経を派遣して平氏を滅ぼした。

その後鎌倉幕府を開き、初代将軍となった。

源範頼みなもとののりより

源義朝の子。頼朝の弟。義経の兄。

兄頼朝の挙兵に参加し、弟の義経と共に平氏追討の大将として主に陸路で戦った。宇治川うじがわの戦いで源義仲を破ったのち、一ノ谷いちのたに壇ノ浦だんのうらの戦いで平氏を滅ぼした。

源義経みなもとのよしつね

源義朝の子。頼朝、範頼の弟。

兄頼朝の挙兵に参加し、兄の範頼と共に平氏追討の大将として主に海路で戦った。

宇治川の戦いで源義仲を破ったのち、一の谷、屋島やしま、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。

その後後白河法皇に接近して頼朝に疎まれ、奥州藤原氏の保護を求めて平泉に亡命するも、頼朝の依頼を受けた藤原泰衡ふじわらのやすひらによって衣川の戦いで殺された。

源義仲みなもとのよしなか

源為義の孫。頼朝、範頼、義経のいとこ。

父を義朝の一家に殺されたことから、いとこたちとは疎遠であった。

源頼政・以仁王の挙兵に呼応して北陸で挙兵し、倶利伽羅峠くりからとうげの戦いで平氏を破って京都を占領し、平家追討の主導権を握ろうとしたが、宇治川の戦いで源範頼・義経兄弟と戦い、敗死した。

源頼家みなもとのよりいえ

源頼朝と北条政子ほうじょうまさこの子。実朝の兄。鎌倉幕府第二代将軍。

父の死後将軍となり、妻の父比企能員ひきよしかずと結んで、影響力を強める祖父北条時政ほうじょうときまさを排除しようとしたが失敗し、子の一幡と義父比企能員ともども殺された。

源実朝みなもとのさねとも

 

源頼朝と北条政子の子。頼家の弟。鎌倉幕府第三代将軍。

兄頼家に代わって将軍となり、祖父北条時政を初代執権に任じ、時政が失脚するとその子義時よしときを第二代執権にした。

右大臣に任官したが、翌年(1219年)鶴岡八幡宮で甥の公卿に暗殺され、自身にも子がなかったことにより、源氏の直系は断絶し、源氏の鎌倉幕府将軍は絶えた。

和歌に優れ、万葉調の歌を『金槐和歌集きんかいわかしゅう』にまとめた。

一幡いちまん

 

源頼家の子。公卿の兄。

父の失脚に際して殺害された。

公暁くぎょう

源頼家の子。一幡の弟。

父の失脚後も助命されていたが、後に鶴岡八幡宮で叔父実朝を暗殺し、自身も斬られた。

 

実はこの後も清和源氏は登場します。

それは鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の新田氏、室町幕府を開いた足利尊氏の足利氏などです。

彼らは独自の名字を名乗るようになったので、名前が「源」から始まりませんが、実は清和源氏の分家なのです。

室町時代には足利氏から分かれた細川氏、畠山氏、今川氏、斯波氏や河内源氏出身の甲斐の武田氏、常陸の佐竹氏などが登場しますし、新田氏から分かれた一族は山名氏の他に、江戸幕府を開いた徳川氏(松平氏)もいます。

もっとも、徳川氏は清和源氏につながるように家系図を改ざんしたとも言われていますが、いずれにせよ武家の棟梁として清和源氏の血が重視されていることがわかるでしょう。

 

さいごに

いかがでしたか?(^^)日本史Bを勉強している人は覚えている名前ばかりでしたよね?

名前だけ憶えていても流れを整理できていない人は多いので、この機会に是非整理して覚えて下さい(^^)/

 

 

↓仏像史、建築史、旧石器時代etc...日本史に用語整理に大活躍の記事をまとめました(^^)/↓

日本史まとめ

 


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